もし俺がどこかの神様に一つだけ願いを叶えてもらえるとしたら、
俺はこう言うだろう。
「授業と面談だけして生きていきたい」と。
……もう少しロマンのある願いにしろよと思うかもしれないが、
真剣に生きてる人間ほど、願いが地味になるものなのだ。
授業と面談。
俺の仕事の中で、この二つが断トツで好きだ。
授業で生徒が「あ!」と目を輝かせた瞬間。
面談で生徒が「よし、やってみます」とつぶやいた瞬間。
あの瞬間に、脳内では静かにBGMが流れる。
♪ 〜栄光の架橋 by ゆず〜
でもだ。
この“花形の仕事”をするためには、無数の“下準備”という肥料撒き作業が必要だ。
プリントを作る。
教材を研究する。
テスト範囲を確認する。
面談資料を準備する。
成績を分析する。
親御さんへの報告を打つ。
しかもこの作業、報われない確率が高い。
生徒に渡したプリント、読まれてない。
面談のために書き込んだA4用紙、開かれない。
準備した小テスト、ほぼ全員不合格。
なんなんだこれは。
俺が“花を咲かせる庭師”だとしたら、
畑の土が俺に「甘い夢を見るな」と囁いてくるレベルで、育たないときもある。
だから、時々こう思うのだ。
「もう準備とか全部誰かやってくんねえかな……」
「授業と面談だけ、俺のとこ持ってきてくんねえかな……」
だが、そのたびに俺は、とある言葉を思い出す。
“花は、誰も見ていないときに咲く準備をしている。”
(※たぶんどこかの偉人か、俺が夜中に考えたかどっちか)
そう。
生徒の成長ってのは、授業の中で生まれるんじゃない。
その授業のために、必死に考えた“見えない時間”の中で生まれてるんだ。
塾の先生は、生徒がいない時間の使い方に、すべてが詰まっている。
そこを怠れば、ただの「テンション高いだけの解説屋」だ。
そして、こう思うようになった。
「授業や面談だけしていたい」は、俺の甘えだった。
本当に“花形”なのは、むしろその花を咲かせる“裏方の時間”なのだと。
だから今日も、
生徒が帰ったあとの教室で、
プリントを印刷する音だけが響く。
この音こそが、未来の「よし、やってみます」を作っている。
そう信じて、また明日も準備に没頭する。
花が咲くその瞬間のために。