人が亡くなるのは、とても悲しい。
それは年齢が若ければ若いほど、悲しさと悔しさが混ざって胸を刺す。俺だって、言葉にならない怒りとやるせなさでいっぱいになる瞬間がある。
で、ここ最近、ある考えに至ったんだ。
「人は皆、死ぬ日が決まっているのではないか」ってこと。
生まれる前に、どこかでそういう約束をしてきているのかもしれない。
3歳で、10歳で、18歳で、20歳で、40歳で、60歳で、80歳で、100歳で――それぞれの“予定表”があるんじゃないかと、ふと思った。
重要なのは、何歳で亡くなるかじゃない。
その日がいつであれ、そこに至るまでに魂を燃やし切ったかどうかが問題なんじゃないか。
短くても、圧縮された人生がある。長くても、中身の薄い時間がある。どちらが正解って話じゃない。ただ、俺はそう感じたんだ。
卒塾生の訃報に向き合って、毎日涙が出た。悔しさもあった。正直言えば、「もっと、生きてほしかった」と。
だけど彼の両親の話を聞いて思った。彼は彼なりに、ちゃんと生きていた。笑って、人に好かれて、周りを照らしていた。そういう生き方も“燃え切った”って言えるんじゃないかと。
だから俺が今、塾生や卒塾生、そして自分の子どもたちに伝えたいのは単純だ。
アホでも、バカでも、何でもいい。まずは笑って生きろ。
そして、日々の小さな選択で「魂の火」を灯し続けろ。勉強だって部活だって家族との時間だって、全部が火の燃料になる。
もちろん、気を抜くなとも言いたい。無茶はするな。事故や病気を避ける努力はしろ。
だけど同時に、「ただ長く生きる」ことが最優先じゃないとも思う。
限られた日数の中で、どれだけ自分の色を出せるか――そこに価値がある。
俺自身も決めた。
死なないように気をつけながら、死ぬ日まで生き切る。
目の前の生徒一人ひとりに向き合い、小さな成長を見逃さない。家族とくだらない会話をして腹を抱えて笑う。仕事で泥をかぶっても、翌朝にはまたホワイトボードの前に立つ。
もし本当に「死ぬ日」があらかじめ決まっているのなら、その事実は俺たちを萎えさせるためにあるんじゃない。
むしろ、残された時間の濃度を意識させるためにあるんだと思う。だから今日も、魂に火をつける小さな一歩を踏み出そう。
最後に。誰かが悲しみに沈んだとき、まずは、その人が最後まで燃やした何かを、ひとつ見つけて讃えてやってほしい。
そして、できるなら――それ以上に自分の命を燃やして生きてほしい