思考放棄すんな、愚民ども。
……という、刺激的な言葉で始めてみたが、
俺はこれを愛を込めて言っている。
塾の先生をしていると、試験前になると必ず現れるんだ。
“まとめノート教”の信者たちが。
「よし!試験勉強始めよう!」
→なぜか部屋の掃除を始める。
これ、多分紀元前から人類に伝わる“受験あるある”だと思う。
エジプトの壁画にも書かれてるはずだ。
「ファラオ、試験前に机を整理す。」って。
で、現代版ファラオたちはこうだ。
試験前日に、「まとめノート作ろっかな」とか言い出す。
いやいやいや。
お前、なんで試験前日に“清書”してんの?
今やるべきは、清書じゃなくて検証だろ。
そしてなぜか、問題集を写してから答えを書く。
それを見て「うわぁ〜頑張ってるぅ〜」って思われたいのか知らんが、
残念ながらそれ、作業だから。
脳みそ、一ミリも使ってない。
俺の経験上、こういう行動をとるやつに共通してるのは、
“思考を避ける”ことだ。
思考って、めんどくさい。
考える、覚えるって、疲れる。
だからみんな、考えない方向に逃げる。
そして、逃げながら「頑張ってる感」を出す。
ノートを色ペンでキレイに書くと、
“頑張ってる自分”に酔える。
でもな――
その”努力”、点数には1点も反映されない。
一方で、成績を上げてるやつは試験前日も淡々とアウトプットしてる。
問題を解いて、間違えて、原因を分析して、
また解いて、また間違えて、でも少しずつ精度を上げてる。
つまり、「考える」という泥臭い作業をちゃんとやってる。
俺は、まとめノート作りをしてる子を見かけても、
もう声をかけない。
「それ、意味ないよ」って言いたいけど、言わない。
なぜか?
残酷な話だが――
自分で気づかない限り、何の意味もないからだ。
俺が言っても、その瞬間は「そうかも」と思うかもしれない。
一番良くないのが、”先生が言ったからやめとこう、先生のいるところでは先生が喜ぶ勉強をしよう”と思うからだ
でも結局、次のテスト前にも同じことをやる。
“痛み”を伴わない気づきは、人を変えない。
だから俺がそういう話をするのは、
テストが終わったあとだ。
あるいは、テスト期間が終わった平和な時期に。
点数を見て、「あれ?努力したのに…」と感じたタイミングで、
俺は静かに言う。
「お前、もしかして“考える”をサボってたんじゃない?」って。
勉強って、量でも才能でもない。
“思考量”で決まる。
思考を止めた瞬間、成績は止まる。
でも、考える習慣を持った瞬間、
人は何歳でも伸びる。
だから今、まとめノートを開こうとしてるお前に言う。
ペンを置け。
脳を使え。
思考放棄すんな、愚民ども。
俺はお前の脳が動く瞬間を、心から楽しみにしてる。




