高校のときの英語の先生、奥西先生。
今でもその名前をはっきり覚えている。
この先生の授業、マジで大学の文学部レベルだった。
高校生の俺たちには難しすぎて、クラス全員が順番に沈んでいった。
1時間目の授業なんて、全員、黒板を見ながら舟を漕いでた。
まるで「文学的睡眠」だ。
でも、ひとつだけみんなが急に目を覚ます瞬間があった。
それが――奥西先生の雑談タイム。
授業が進まない。
だけど雑談が始まると、全員ムクっと起き上がる。
「よし来た!」って顔で。
そしてその雑談の中で、俺はいまだに忘れられない言葉を聞いた。
奥西先生はニヤニヤしながらこう言った。
「君らは中学受験や高校受験で“やればできる”なんて言われて生きてきたかもしれないけど、
実は“やってもできない”人間かもしれませんよ。」
……いや、失礼だろ!笑
生徒に向かって「やってもできない」って、そんな先生聞いたことない。
でも不思議なことに、笑いながらも、胸の奥がズキッとした。
だってその当時、俺は“現実的にできない生徒”だったからだ。
テストは平均以下。
「次は本気出す」と言い続けて、2年が終わろうとしていた。
本当はわかってた。
俺は「本気出してないからできない」って言い訳してただけ。
でも、もしも――
“本気出してもできない人間”だったら?
その日から、俺は自分に実験を始めた。
「俺は本気を出したらできる人間なのか。
それとも、やってもできない人間なのか。」
とりあえず、やってみようと思った。
だって確かめずに“やればできる”なんて言い続けるの、ダサいじゃん。
それからの俺は、ちょっとずつ本気を出す練習を始めた。
朝早く起きて単語帳を開き、寝る前にノートを見返し、
「明日の俺が笑うための今日」を積み上げた。
結果?
最初は全然できなかった。
本気出しても、成果なんてすぐ出ない。
でも不思議なことに、半年くらいしたら“できるようになっていく自分”が見えてきた。
点数が伸びた瞬間よりも、「昨日の自分に勝った」と思えた瞬間のほうが嬉しかった。
あのとき奥西先生が言ってくれた「やってもできないかもしれない」という一言。
あれは、俺たちを傷つけるためじゃなくて、目を覚まさせるための言葉だったんだと思う。
だって、“やればできる”って信じたまま何もしないより、
“やってもできないかもしれない”って疑いながら本気を出すほうが、
ずっと人生は前に進むから。
だから今、受験を控える生徒たちにも伝えたい。
「やればできる」は、半分ウソで半分ホントだ。
本気でやって、できないかもしれない。
でも、本気でやらなきゃ“できるかどうか”さえ分からない。
――結局、“やればできるか”を決めるのは、やった人間だけなんだよ。




